浮船上のバレンタインデー このエントリーを含むはてなブックマーク

「あの、波多野さん」
 と呼ばれて、波多野雪平は振り返った。浮船《峰越》の船橋、操舵席である。
「うわ」
 と、思わず驚いた声をあげて、雪平は船室から上げ蓋を開けて出てきた、その姿を認めた。頭の上に糸巻きが二つ。これは本来電線を巻く糸巻きだが、これに髪の毛をぐるぐる巻きにして髪留めにしている。その下には大きな眼鏡をかけた顔があった。
「……ああ、夏哉」
 ここから誰かが出てくるとしたら、それは通信員の火守夏哉に決まっているのだが、なにか突然で、驚いてしまったのだ。彼女が出てくるときは、いつも上げ蓋をあげ損なったり、途中ではしごから落ちたり、前触れというかひともんちゃくあった上で出てくることになっているからだ。
 いや「出てくることになっている」はないと思うが、それよりもだ。
「それ、何だ?」
 雪平は首をひねる。今、夏哉の頭上に、なにか紙で包んだ箱のようなものが乗せられているのだった。糸巻きと糸巻きの間に、うまく釣り合いをとって、荷物が乗っている。軽そうに見えたが、どうしてそういうことをするのか。
「え、あの、だって、頭の上に乗せとかないと、落っこちちゃうんですよう」
「いや」
 そういうことを言ってるんじゃないがなあ、と雪平は思って、それからこう言った。
「落ちるって、箱が?」
「私がですっ」
 顔を真っ赤にしてそう言った夏哉に、雪平は、なぜか深くうなずいた。それなりに、考えているんだなと思った。
 まあ、あれだけ落ちたら犬とかでも理解する気がするが。
「あの、そうじゃなくて」
 と言うと、夏哉は白衣の腕を危なっかしく頭の上にのばして、箱を手にとった。そういえば夏哉は鯨軍制服であるセーラー服の上に、いつも白衣を着込んでいる。防寒のためなのか、それとも小次郎と呼び始めた船載無電がしょっちゅう故障して、修理をしなければならないからか。
「これ、波多野さんにあげます」
「え?」
 と、すっとんきょうな声を上げつつも、のばされた手を取ろうとして、雪平は席を立つ。なんだ。なんだろう。
「お歳暮……か?」
「そんなわけないじゃないですかっ」
 と即座に否定されて、雪平は首を傾げる。じゃあなんだというのか。旧正月とかか。箱を手にとってみる。奇麗に包装されたその箱は、見かけよりも少し重量がある。中に何が入っているのか、と雪平は箱を振ってみた。
「あ、ちょっと、やめてください。やめて」
 と慌てて止める夏哉は、雪平に両手を伸ばそうとして、ぐら、とバランスを崩しかける。
「あ、おい」
 大丈夫か、と片手を伸ばして夏哉の手をとった雪平を、依然として真っ赤な顔で見返した夏哉は、
「チョコレットですっ。中身は」
「あ、ああ」
 なんかそういうものがあるという話は聞いたことがある。確か、お菓子かなにかの名前だ。
「あの、勘違いしないでくださいよ波多野さん。義理なんですからっ」
「ああ、うん」
 わけもわからず、雪平はうなずく。そりゃそうだろう、人間関係において、義理は大事だ、と雪平は思う。あの《ヴァローナ》の四人だって、結局はかれらのいのちを救ったことになる雪平に、奇妙な恩義を感じていたのが感じ取れた。こういうのに国境はないらしい。
「義理の、ちょこなんとか、な。ありがとう」
 と言ってから雪平はちょっと考えて、それから、
「なんの義理?」
「え」
 と夏哉は口ごもった。
「だから、なんの義理だって」
 聞いたんだ、が、と言った雪平に、夏哉は、
「え、その。あの、だってクニさんもいるし」
 とわけのわからないことを言う。
「クニが?」
「いえ、それじゃあの、そうでした。無線の傍受が、忙しいので」
 と夏哉は意味もなく雪平に敬礼をしようとして、今度こそバランスを崩して、船室に落ちた。バネ仕掛けのように、律儀にその上で、ばたん、と上げ蓋が閉じる。
 義理の、ちょこなあ。
 と雪平が不思議な顔をして包みを見ていると、
「ちょっと、雪平!」
 と頭上から声がした。よく呼ばれる日だな、と思って雪平が目を上げると、船橋の天井、見張り台につながるはしごから、クニが半分降りて来てこちらを見下ろしている。
「さっきから呼んでるでしょ。どうして答えてくれないの?」
「あ、ああ。すまん」
 と雪平は片手を拝むかたちにして、クニに謝る。普段雪平たちは慣れていてなんとも思わないが、航行中の浮船は、機関の音でいつも騒音に満たされている。クニは、見張り台から伝声管を通して雪平に呼びかけていたのだろうが、気がつかなかった。夏哉の相手をしていたこともあるが。
「それなに?」
 と制服の冬服の上に、これも制服である、航空外套を厚く着込んだクニが聞いた。雪平としては、首をひねるしかない。
「いや、なんか夏哉が持って来たんだ。クニに義理があるとか言ってたぞ」
「私に?」
 クニは船橋まで降りてくると、雪平の手の中の箱を見た。
「なんだろう」
「わからん」
 と雪平は首を振る。
「夏哉はだいたいそうなんだ。やることなすこと、どうもおれにはよくわからん」
 哨戒という任務の都合上、やることが「傍受」と「見張り」それから長距離の往復という退屈なものになっているのは確かだが、今これを渡す意味はあまりないと雪平には思えた。地上でもいい気がする。
「まあいいや。お菓子なんだと。食べていいらしいぞ」
「えっ」
 と雪平から箱を受け取った、クニの目が輝く。どうもわかってきたのだが、この娘は甘味に目がない。なんか、子供のころから菓子のようなものに縁がなかったのではないかという気がする。
「いいの、雪平。今、ここで?」
「いいけどだな。それより、なんか用があったんじゃないのか」
 と雪平は訊く。
「あ」
 とクニは自分の唇を手のひらで押さえてから、こう言った。
「南方、船影あり。たぶん、小型の艦艇じゃないかと思う」
「うお」
 と雪平は慌てて操舵席に戻る。
「夏哉! 打電。南方に船影あり。場所、時間!」
「は、はいいっ」
 下から悲鳴のような声が上がってくる。
「あの、波多野さん、さっきの」
「急げ! クニはもう少し見張り頼む」
「うん」
 たわめられたバネのように跳ね上がり、見張り台に駆け上ってゆくクニ。それを見送って、船橋の床に置かれたままのちょこを一瞬だけ見た雪平は、《峰越》の針路を南向きに変える操作を行いながらふと思った。
 そういえばこれって、時代考証的にはどうなのだろう。
 しかし、今はそんなことを考えている場合ではないのだった。


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