ここで提言したい。これからさき、人類は小型化するべきである。
人間というものが、他の動物と異なる存在、人類であるための特質として、唯一最大の特徴は、やはりその頭脳である。細かく言えば、外界の情報をもたらす感覚器や、その脳で考えたことを外の世界に向けて具体化するための繊細な手指というのもそうだと思うが、逆に言えば、その他のすべてはべつだんこうなっていなければならないものではない。
つまり、今仮にゼロベースで自由に人間というものを、特に環境負荷、効率というものを重視してデザインした場合、人間が今の大きさであることに何か必然性があるのか、もっとちっちゃいほうがいいのではないか、ということである。6センチとか5ミリとか、それくらいまで小さくなりすぎると、虫に襲われて卵を産みつけられる等、いろいろ不都合も出てくると思うが、たとえばトールキンの小説に出てくるホビット族、人間の半分くらいの身長を持っていたとして、大きな不便というのは、そんなにないのではないか。もちろん、高いところのものを取れないとか、オリンピック種目において「大きい人」にかなわないとか、そういうことはあると思うが、日常生活を送る上で、そんなに不便はなさそうである。
たとえば、スポーツ以外でもっとも不都合が出そうなのは肉体労働であるが、これも今あるものは過去のそれに比べ、筋力に頼るところがはるかに少なくなっているのは間違いない。もっとも辛いところは既に機械化されているのであって、たとえばショベルカーを使って土を掘るのに、体の大きさはほとんど関係ない。現実の建設現場や農場などではさまざま不都合が出てくると思われるが、それぞれ無理なところは新たに機械を導入するなどして、どうにか解決できるものではないかと、ここは楽観的に考えていいかもしれない。
一方、利点は多い。まず家などの施設が小さくて済む。小さい家は暖房するのも冷房するのも小さなエネルギーで済むし、風呂の水の量も少なくてよい。食べ物も今よりずっと少なくて済むだろう。交通機関も同じ容量でたくさんの人が利用できる。施設が小さくなるということは、土地の大きさが広くなったのと同じことだし、あまった土地は耕作に使うことができるだろう。化石燃料の消費、二酸化炭素排出量のような環境負荷ということを考えた場合、体が小さいことはいいことばかりなのである。
さらに言えば、身長が低くて体重が軽いことは、事故にあった場合のさまざまな危険を低減する効果がある。転んだときに身長2メートルの人と1メートルの人、どちらが頭にけがをする度合いが高いかというと、これはもう2メートルの人である。二足歩行のときに頭蓋骨とその中身に蓄えられる位置エネルギーは、身長に比例する。転んだとき、「大きい人」は「小さい人」の2倍のエネルギーで、頭をどやしつけられるのである。走るのが遅く、体重が軽いこともこの傾向をさらに増す。子供がよく転ぶわりにけがが少ないのは、たぶんこうした種々の効果であると思われるが、それを大人も享受できるわけである。意外に大人は転んでけがをしているのであって、全体としてかなり人類の幸福に資するところがあるはずである。
ではどうするべきか。どうやって「小さな人々」の世界をつくればいいか。なにも「背の高いやつは皆殺しにしろ」みたいな、優生思想のようなことを言っているのではない。「身長が高い人はかっこうよくて好ましい」というのではなく「小さい人こそがエコでステキであって、結婚するなら小さい人」という風潮が世界的に広まれば、それだけでほんの数世代のうちには、人類の身長は小さくなってゆくのではないかと思われるからだ。それほど強い強制力が働かなくとも、千年を単位とする短期間のうちには、この手の淘汰圧は種をドラスティックに変化させる。
これがどれほど簡単なことであるかを実感するためには、犬が参考になるかもしれない。今、犬には実にいろんな種類がいる。ハイジの山小屋のヨーゼフみたいなセントバーナードもいれば、チワワだとかポメラニアンみたいなのもいる。ダックスフントにちっちゃいのがいればいいなと思えばミニチュアダックスフントが出てくる世界なのだが、こういうのはどれもこれも、数千年前には全部オオカミに似た何かだったはずで、それをあっというまにここまでにしてしまったのである。人間がいったんその気になれば、自分自身を遺伝的に小さくすることなど造作もないことではないかと思われる。
そして実はその傾向はすでに始まっているのではないか。身長、特に男性のそれに関してはさすがにまだ「高いほうが好ましい」という風潮があると思うが、現在、若い女性に関して言えば、太っている状態から健康な体重をこえてさらに減量をなしとげてしまうような、やせすぎのほうが問題になっている。スリムなほうが魅力的である状態が長く続いていて、海外のモデルさんを見ても、これはどうやら世界的な傾向のようである。かつて長く「太っているほうが美人」という文化があったことを思うと、これはかなり奇妙なことであるが、近年そうなっているのは間違いない。
一方、男性に関しても「太っているほうが(裕福さを示すので)貫禄があっていい」とか、まるまる太った健康優良児とか、「フトシ」という名前が子供の幸福を祈って付けられていた、というような意識が、我々の、ほんの一世代ほど前には健在であったのだ。変わるときには変わるものだと思わざるを得ないが、腹囲を測定して判定されるメタボリックシンドローム予備軍云々が声高に叫ばれるよりも前から、太り過ぎは徐々に白い目で見られる傾向にあったことは間違いないのである。社会によっては「自己管理ができない」とみなされる場合もあるらしい。
とすれば。この傾向が続けば、人類はやがて「やせている配偶者」を「太っている配偶者」よりも選り好みすることで、自分たちを小さくしてゆき、世界はいまよりももっと広くなってゆくのかもしれない。化石燃料などのエネルギー枯渇や食料不足にも対応し、ひろびろとした世界でホビットとしてのびのびと生きてゆくのかもしれない。そうすることで少なくとも、地球温暖化の問題は部分的に解決するかもしれず、そうなることが少し待ち遠しい、と身長が必ずしも高いほうではない、私などは思うのだがどうだろうか。