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「アシモフ自伝」だったと思うが、駆け出しの小説家として短篇を雑誌に載せてもらうにあたり、1語いくらいくらだった、と克明に書いた部分があって、そういうのはいつまでも覚えているものかな、と思って微笑ましかったことがある。書いた原稿の単語数を数えて、それに(たとえば)1セントをかけ算して、原稿料を算出したらしい。日本だとここは「原稿用紙一枚あたり」という計算をするところで、いったい小説やエッセイなどがその質ではなく長さで評価されていいものかと思うが、雑誌に載せる前、世に出す前の段階では質、人気、評価などというふわふわしたものを計算要素に入れることはできないので、こうするしかないものかもしれない。

 それでもこの「一語あたりいくら」という計算方法がへんてこに思えるのは、書いているとむしろ長く書くのは簡単で、短くするほうが難しい、というふうに思えてくる場合があるからだ。どう考えても、小説を書くというのは「長く書く」ということではない。それは本質ではないと思うのだが、では、原稿料をたくさんもらうためにわざと水増しする人はいないものだろうか。原稿水増しの誘惑に抗するインセンティブとしては「あんまり長くすると編集者に掲載を拒否される」「質が落ちて読者にツッコミを入れられる」くらいしかないように思われる。ちょこっと水増ししてちょこっと余計に儲けることを止める仕組みは、なにもないとも思える。

 と書いてきたのは、つまり「掲載量を減らすことで新聞社が儲けるつもりだ」と私が思ってはいないことを明らかにしたかったからだが、このたび、朝日新聞の文字が大きくなるらしい。今朝の朝刊にそうあったのだが、2011年3月31日夕刊から、朝日新聞において使用している文字が大きくなる。これまでよりタテに8パーセント、ヨコに5パーセントほど、大きくなるそうである。

 そもそもどうしてそういうことをするのか。同じ値段で読む量が減っては読者が損をするではないか、同じ紙面で情報量が減ってエコに逆行するではないか、と単純には思うところだが、社会全体がそうなのだもの、読者に高齢者の占める割合は増えてゆく一方なのだろうし、まして紙媒体には不自由な面もある。私が書いているようなこんな雑文であれば、ブラウザの設定をちょこっと変えれば大きさなど自由自在だが、そこは紙の悲しさ、読者の要望に応えれば文字を大きくせざるを得ないのかもしれない。上に書いたように「単に長く書くことはべつに難しいことではない」ということを考え合わせ、まあ、ここはひとつ納得するとして、しかし、ちょっと気になるのは「大きくなり方が大きくなっているのではないか」という点である。

 朝日新聞では特集ページを設けて文字の変遷について解説しているのだが、それによれば、そもそも活字の時代、1951年から1981年にかけて、文字の大きさは一定だった。そのあと4回にわたって文字を大きくする方向に変更が行われていて、今回が6つめの文字ということになるのだが、それぞれの変更とそのときの大きさをまとめると、こんな感じだったそうである。

(1)1951年〜1981年縦約2.2mm横約2.8mm
(2)1981年〜1981年縦約2.3mm横約3.0mm
(3)1991年〜2001年縦約2.6mm横約3.3mm
(4)2001年〜2008年縦約2.8mm横約3.7mm
(5)2008年〜2011年縦約3.0mm横約3.7mm
(6)2011年〜縦約3.3mm横約3.9mm

 ははあそうですか、という感じであるが、こういうときはグラフに直すとわかりやすい。

 だいたい単調増加していて、縦横の比がときどき変わっているのが不思議な感じだが、まあ、ならせばどちらも回を重ねるごとに大きくなっている。

 しかし、よく考えてみると、文字というのは二次元のものである。新聞紙の紙としての大きさは変わっていないのだろうから、そこにどれだけの情報を入れられるか、ということで考えれば、やはり長さではなく面積で比較するべきかもしれない。縦軸を面積にして書き直したグラフは、このようになる。

 この場合も直線的に増加しているようだが、なんとなく直線よりも少し上向きの曲線のような、つまり「大きくなり方が大きくなっている」ような気がする。非常になんとなくで申し訳ないが、このまま爆発的な増加に移りそうな気が、なんとなくする。少なくとも、文字の大きくなり方がここで止まって、以降、そのまま、という感じはない。

 どうなのか。このあと文字の大きさは、いつ頃、どのようになってゆくのか。それを考えるために、横軸に注目する必要があるだろう。上の二つのグラフの横軸は「バージョン」であり、つまり「文字の大きさの改訂」を一つの区切りとして横に並べたものである。実際には横軸としては「時間」を使わねばならないのかもしれない。

 今度ははっきりしている。文字の大きくなり方というものが、年を追うごとに、不気味なほどその足を早めながら繰り返されたプロセスであることがわかる。地球温暖化に関連してよく見る「ホッケースティック曲線」を、なんとなく連想させられる曲線である。

 朝日新聞の文字は、2000年からの11年間に50パーセントも大きくなった。1990年からだと87パーセントである。失われた10年とも20年とも言われる期間に、これだけの成長を遂げたことになる。なんかもう、このグラフを見ていると来年にもまた20パーセントくらい大きくなって、1030年くらいで無限大に発散しそうな感じもしてくるが、いったいこの先に何が待っているのか、おそらくもっとも恐れているのは当の新聞社ではないかと思われるので、あんまり深くは追求しないことにする。

 ところで、近年の増加の増加ぶんを仮にオミットして、1981年からの成長率をえいやっと平均してしまうと、1年につき2.9パーセント大きくなってゆくことになる。最近のことは忘れることにして、もしこのまま続けば、と考えてもいいだろう。10年ごとに29パーセントずつ、むくむくと複利で大きくなってゆくと、今世紀の終わりには一文字の面積は126平方ミリ近くにまで増加する。これは縦約1センチ、横1.2センチくらいの文字である。これは現在の小見出しよりも大きな文字だから、まあその、夢のないことを言えば、ここまで行く前に増加は止まるのだろう。少なくとも上のグラフを見る限りでは、その限界がすぐやってきそうな感じはしないわけだが、ではどこで止まるか。不可逆のこの過程を止めるインセンティブとしては「読者にツッコミを入れられる」しかないような気がするのである。


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