長いものに巻かれる

 あっ、そうです。「長いものには巻かれよ」ということわざが変であるという、今回はつまりそういう話です。

 いやその、このことわざ、とても変ではないでしょうか。いや、意味はわかります。強い権力や目上の人に、不本意ながら従わねばならない場面。そういうのは誰にでもあります。おかしいなあ、変だなあと思いながらも、あるいはその権力を恐れ、あるいは単に面倒臭いから、ここは仮に、一時的な方便として、あっさりと相手に従っておく、相手を立てておく。そんなことは正直あなたにもあるし、私もある。だれにでもある。それはよくわかる。しかしここでです。私が変だ、おかしいと思うのは、何が「長いもの」で、何が「巻かれろ」なのか、このことわざがどうしてこの言葉をセレクトしたのか、そこのところだと、私はそう言いたい。いやだから、今回そういう話ですってば。

 いやもうちょっと説明します。何がなんだかわからない。そうですねすいません。つまり本件に関して私が特に言いたいのは「長いものには、一般に私たちは巻かれたりしない」ということなのです。考えてみてください。このことわざにちゃんとした意味を与えようと思ったら、そもそもこの「長いもの」が常に私たちを巻こうと、そう思っていないと通じない気がします。あっ「長いもの」が出てきた。出てきました。長いものはいつもそうですが、こいつは私たちを巻こうと思っている。すきあらば、あわよくば、全てが長いものの思い通りになるなら今すぐにでも、私たちを巻こうと思っている。それならばよくわかる。「あなたを巻きたい」とやってきた長いものに「いいよ」と巻かれる。そういうことなんだろ。いいよ巻かれてやるよ。それなら気持ちはよくわかる。

 しかしそんなことはないのです。ないはずです。一般に、私たちの身のまわりにやってくる「長いもの」は、決して私たちを巻きたいとは思っていない。長いものを思い浮かべてください。へび。ひも。つた。いやいやそんなはずはない。長いものはただ長いものとしてそこにあって私たちをぐるぐる巻きにしようと飛びかかって来たりはしない。一方の私たちだって、別に「長いもの」に巻かれてトクをすることなど、何一つありません。そうです私たちは巻かれたがってはいない。長いもののほうだって私たちを巻くのなどまっぴらごめんというものでしょう。でしたら誰が、いったい何者が、長いものをして私たちを巻こうとしているのでしょうか。ああ、誰もいない。そんな人は誰もいないのだ。なのにただこのことわざだけが「長いもの? 巻かれたらいいんじゃない?」それが大人ってもんでしょ、と言うのです。長いもの自身や私たちの気持ちをすっかり無視して、そう軽々しく断言するのです。

 そもそもなことを言えば、これは比喩です。現実にはどこにも「長いもの」はない。ただ、意見を尊重するべきかもしれない権力者と私、あるのはただその二者だけです。であれば、この「長いもの」、これはなんだってよかったはずではないでしょうか。「速いもの」に「抜かれろ」でもよかったし、「大きいもの」を「見上げろ」でもいいし、「輝くもの」を「みがけ」でもよかったのです。「赤いもの」に「交われ」でも、「細いもの」を「耳に入れろ」でもいい。なんだったら「いためもの」で「ごはんを食べろ」でもいいのだし、「みやげもの」に「うまいものなし」でも大丈夫。およそ森羅万象、なんだってよかった。なんだってよかったのに、なぜか昔のひとは「長いもの」に「巻かれろ」を選択した。ここには何かがあったに違いありません。

 何かとは何か。いっそのこと長いものに巻かれてみる。長いものだって私なんて巻きたくないと思っているだろうし、私はもちろん長いものに巻かれている場合ではないのです。しかしあえて巻かれてみたとして、一歩譲って巻かれてみたとして、それでどうなるのか。よくできたことわざであれば、何かここで、何かカタルシスがあるはずです。「なんだかわからないけど、巻かれてみたらいいことがあったよ!」みたいな、もしもこのことわざが、世界名作昔話の類だったら、そんな大逆転があって「なるほど『長いものには巻かれろ』だ!」とちびっ子たちが感動しなければなりません。しかしそんなものはない。ないのです。そこにあるのはただぽつねんと、ツタかなにかそういうったものにぐるぐる巻きになって、「あのう、巻かれてはみましたけど……これから私どうなるんでしょうか、センパイ」とつぶらな瞳で私たちを見上げている後輩が一人、冷たい床に転がっているだけなのです。

 さてここでミームです。ミームとはなんですか。これは、これも、ドーキンスが考えたらしい。遺伝子(ジーン、gene)と韻を踏むように考えられたらしいのですが、要するに、遺伝子がその発現する機能(表現型)によって生物の体を伝わってゆくように、あるひとかたまりの知識が、人から人へ、その知識が持つ有用性によって伝わってゆく、みたいな考え方のようです。人づたえに、ある有用だったり、そうでもなかったりする知識(例えば折り紙でツルを折る方法)がときには変異をしたりしながら伝わってゆく。これがミームです。いや、それを言えばなんだってミームではないか、この雑文もあのツイートもみんなミームか、とあなたは思うかもしれませんが、まあそういうことで、確かにそういうのはだいたいなんでもミームだとのことです。

 ミームという考え方の面白いところは、その「なんだってミーム」という部分ではなく、主に「遺伝子と似ている」という、その比喩がではないかと思うのですが、たとえば、遺伝子がちょくちょくそうであるように、その知識がどんなに有用であるか、というより、むしろ「どんなに伝わりやすいか」ということでもって、伝わり、広がってゆく性質があって、そこが面白いところの一つかもしれません。「この考えをあなたは広めなければならない」という命令を含むミームは、そうでないのより広がりやすい。昔からある不幸の手紙は、今なんだかLINEとかにも進出しているらしいですが、これも「拡げよ」という命令が含まれているからだと考えられます。「拡散希望」というのも、そうかもしれないですね。

 さてこの長いものです。何が長いものなのか、何が巻かれるなのか、わからないけど伝わっている。長いものはことわざミームプールの中で永遠の命を得ています。なぜなのか。必然性もなさそうだし、面白いオチもない。何にもうまいこと言ってないのにどうして伝わったのか。私は言いたい。これはミームのなせるわざであるとっ。

 つまり「長いものに巻かれているので、このことわざは伝わったのだ」と、そういうふうに言いたいわけです私は。あるときあなたが先生からこのことわざを教わったとします。あるいは部活の先輩から、こう聞いたとします。「そんなこと言ったってお前、長いものには巻かれろ、っていうじゃん」。そのときどう思うか。あなたには二つの選択肢がある。「けっ」と思ってそのまま忘れるか。あるいは「なるほどその通りだ」と思って記憶して、後輩にいつかそれを伝えるかです。そして、古今東西、ことわざというものは、この後者の類の人によって伝わってきたのです。いやよく知らないけど、そうだと思います。

 もうおわかりでありましょう。そう、「長いものには巻かれろ」と聞いて、うわあ、なるほどその通りだなあ、と思った人が、そう思ったにも関わらず、「長いものには巻かれるべきだ」とすっかり納得したにも関わらず、次の瞬間、もうこのことわざの言わんとするところをあっさりと無視して「ところで『長いもの』ってなんスか。なんで巻かれないといけないんスか」と先輩に訊くでしょうか。ありえない。ありえません。そんなことがあるはずがない。人は、長いものに巻かれろと思ったとき、すでに長いものに巻かれているのです。何を言っているかわからねーと思うが

 とりみだしました。今回の話は、徹頭徹尾、なんの調査もしていない想像の産物ですが、それでもなんとなく、私の言いたいことはわかっていただけたのではないかと思います。「長いものには巻かれろ」。なんだかよくわかりません。考えればかんがえるほど、不安になります。しかし、なんだかわからないけど先輩の言うことだから深い意味があるのだろうと思ってきた後輩たちによって、長いものに巻かれよと言われて長いものに巻かれてきた私たちの先輩方によって、このことわざは伝わり、そして後輩たちに伝えられてゆくのです。つまりそうなんだって、私、思うんです。ですよね、センパイ。


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