影の剣士

「この世界が、もしもこうではなかったら」と考えることは、お前にはあるだろうか。俺はある。むしろ最近は、そればかり考えている気がする。もしも神様がこの世界を作ったとして、そのときにいろんなルールを決めたとして、ルールのこの部分は、どちらでもよかったはずなのに、どうでもよかったように見えるのに、実際にはどうしてこうなっているのだろうか、と。

 ああ、具体的に言おう。回復の魔法だ。たとえば、唱えるだけでみるみる体力が回復し、傷をふさぎ、肉を補い、血を増やしてくれる。そんな魔法があったらどうだろう。激しい戦いの中、たとえ腕や足がもがれて落ちても、魔法使いが杖をさっと当て、短い命令の言葉を唱えるだけで、魔法の力が失った手足を光の中から再生してくれて、ほんの数秒で元どおり。剣士は剣と盾を握り直し、モンスターたちの戦いに、また元気に赴いてゆく。もしもそんな魔法があれば、どうだっただろう。

 しかしこの世界にはそんなものはなくて、俺たちはそのことを深く考えたことさえなかったので、その罰なのかもしれない。俺たちはいまこうして、こんなふうに生きている。

 思えば最初から警告はされていた。このダンジョン、古代の怪物の王の所有する、この深くて暗い迷宮を旅し、強力な魔法のアイテムを、限りなく生み出される金銀財宝を手に入れる──しかも生きて帰る──のは、熟練の冒険者にとっても困難な、どうしたって命をかけた冒険になるのだと。

 そうだ。訓練所の騎士は言った。魔法とその力を使った工学、魔法工学が極限まで発達したこの世界にあっても、生物の仕組みは、解き明かすにはあまりにも大きな謎として魔法使いたちの前に立ち塞がっている。いや、誰もが持っている、擦り傷を治す自然治癒力を、魔法の力でやや向上させることはできる。傷口を狙って迷宮内を浮遊している、目に見えない微生物や魔法生物の侵入を防ぎ、厄介な病気から体を守ることも。これらは魔法工学の偉大な成果で、失われるはずだったたくさんの命を、迷宮や戦場や都市国家の片隅で、今日も救っている。

 だがそれだけだ。俺やお前や、冒険者が本当に欲しいと思う、触れるだけで傷を元どおりにする、便利な魔法はまだどこにもない。少なくとも迷宮の冒険についてきてくれる、実践的な開業魔法使いの腕で実現できるようなものは、まったくどこにも存在していないのだ。

 では冒険者たちは孤立無援なのか。危険な罠に満ち、暗がりから冒険者の肉体を狙うモンスターの前にまったく無防備なのかというと、そんなこともない。この世界は、そこまで無慈悲ではなかった。

 魔法は、ある種の鋳型のようなものであるらしい。あるいは影。実体あるこの世界が、別の次元に対して落とした、長い影。それは俺たちの世界そっくりでいて、どこか違っていて、しかし、やはりどうしようもなく似ている。つまり、それが魔法だ。それは俺たちの世界と隣り合っていて、魔法使いの技は、この世界からその世界に手を伸ばし、境界を通して、何かを持ち帰ることができる。

 激しく戦っている、若い剣士。モンスターの牙が、剣士が身につけた最も厚い鉄の装甲を貫き、鍛えに鍛えてはいるもののそれでも結局は人間の、血と肉でできた腕を傷つけ、破壊する。魔法使いはかれを救うために、何ができるだろう。自然治癒では傷を塞げない。微生物を防いで何になる。失った腕をとりもどし、また剣を振れるようにするなんて、夢のまた夢だ。

 そんなとき、魔法使いは、この魔法の世界、影の世界にその手を差し込む。呪文と精神の働きは「剣士の腕」、あるいは「戦士の腕の影」を選び出し、それを常世に持ち帰る。それは、こちらの世界ではすでに失われているものだが、魔法の世界にはまだしばらくの間、存在していて、持ち帰られたそれは、剣士の失われた部分にかちりと嵌まる。それは腕ではない。剣士が子供の頃からずっと相棒としてともに暮らし、鍛え、使ってきた腕が、治癒したわけではない。しかし、なにか恐ろしいことにそれは、もとの腕と同じに、完璧に機能するし、剣士は「影の腕」を操り、「影の腕」を伸ばし、「影の腕」は剣をつかみ、そして振るうだろう。

 魔法とは、少なくともこの世界では魔法は、そういうものだ。俺はよく考える。魔法がそうではなかったら。もっと便利で可愛げがあって、みんなに好かれる技術であるような、他の世界だったら。だが、俺たちの世界では、魔法はそういうものだ。

 そして今、俺たちは迷宮の中にいる。幾度もの戦い、そして罠、炎、ちょっとした謎と、ミスと、信じられないような愚かさ。腕を失い、足を失って、魔法使いは俺に、魔法の手足をつけてくれた。モンスターの鋭い角に、体をひと突きされたときには、内臓の大部分を「影」で補った。酒樽のような大きさの鉄の塊でぶん殴られて、頭が吹っ飛ばされたときには、さすがにもうおしまいかと思ったが、次の瞬間、俺は自分が「魔法の目」で周りを見て「魔法の頭」で考えていることを知った。俺はそのたびに剣を握り、再びモンスターと戦ってきた。俺は何度も倒れ、魔法は何度も俺を立ち上がらせた。

 そうして気がつくと、こうだ。

 俺たちはあまりにも長く戦い続けた。この迷宮に入るときに持っていた、もとの体はもう、パーティの仲間の誰の体にも、どこにもなくて、俺たちはこの迷宮を、魔法の足で歩き、魔法の目で見て、魔法の腕で剣をふるいながら、実にふしぎなことだ、と考えている。迷宮の謎について、魔法の頭で考えている。

 こんなふうでなかったらよかった。魔法がもっと、かわいいものだったらよかった。傷ついた体を、元どおり、たちまち元気にしてくれるものであったなら。

 もしそうだったら、俺はいったい誰なのか、と考えなくても済んだはずだからだ。魔法で作った体にいる、故郷から連れてきた肉体は血の一滴も残っていない、それなのにいまここにこうしてここにいる、この俺は、本当に俺なのだろうか、と。俺とはいったい何なのか、と。

 いやどうなのだ。本当に、お前の世界ではどうなのか。お前がいうように、お前の世界では、魔法で傷が治せたとして、影で失った腕を補わなくてもよいとして、そうして魔法の力で治したお前の体は、本当にお前が母親から授かったお前の体なのか。それとも別の何かなのか。友よ、お前も一度よく、考えてみたらどうだろう。


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