たとえば、夕方なんとなくつけたテレビのニュースで、ある団体の活動を紹介していたとする。新型コロナウィルスの流行ですっかり少なくなったが、かつてはこういうことがよくあった。子供を集めて何かの作業をする。世界的な問題となっている事柄について、ちょっとした実演というか、勉強になるような作業である。「たのしかったー」といってくれる子供のインタビューがあって、それから団体の主催者に話を聞く。これは大きな問題で、私たち一人ひとりがこの問題について考える必要がある。このイベントがそのきっかけになればと思います。
これだ。これである。「考えるきっかけ」というやつだ。ふと気づいてみれば近頃ではみんな「きっかけになれば」と言っていないだろうか。きっかけとはなんだろう。これから私たち一人ひとりが考えていかないといけないと思います、のような思考停止のための決まり文句だろうか。そうではないと思うが、この言葉が使われていることは確かに多い。私たちは弱くて何もできないけれど、身の回りの小さいことなら、できることから少しずつやっていけば。きっかけさえあれば。
そうだ私たちは「きっかけ」になるのが好きである。歴史を見ればわかる。実際に汗を流し、レンガを一つひとつ焼いては積み、やいてはつみした人々ではなく「作ろうぜ」とよびかけた人の名を記憶するように教科書は作られている。その教科書を1ページずつ読み問題集を解いた自分の努力全部よりも、勉強の意義について教えてくれた恩師のほうがえらいと感じるのだ。おそらくは私たちの心に進化的に刻まれた回路の一つが、そのようにささやきかけるのではないか。つまり、私たちは本質的なことには何一つ踏み出さないまま、手近な「考えるきっかけ」を作ることによって一生を過ごす。そういうのが最高で最高だと私の恩師も言っていた。
そんなわけで、最近はストローがきっかけになっている。何かというと、マイクロプラスチックだ。海にプラスチックを捨てる人がいる。なにも家からゴミを持ってきてわざわざ海に捨てるわけではないと思うが、あるときはいらなくなったペットボトルを道端に放置する。だれかが片付けたらよかろうと思ってそうするのだが、それが風でころころと転がり、川に落ちて、破れて小さくなって、海にたどり着き、潮に流され、沖に流れてゆく。どうなるのか。どうにもならない。だいたいにおいて、人間が作る軽いものはおおむねプラスチックでできていて、そのプラスチックは非常に壊れにくい。分解もされない。プラスチックは海をどこまでも流されて行き、そしてそこにそのまま、ずっと存在し続ける。なくならない。これが海洋プラスチック問題だ。
この問題について考えるきっかけにしてほしいと名乗りをあげているのが、つまりストローなのである。ストローは身の回りによくあるプラスチック製品である。ファミレスのドリンクバーなどで、山のように積んであって端から一本とって使う。そして、だいたいは一回きり使ってゴミ箱に捨てる。みんなが「これ大丈夫かな」「これをいつまでも続けることはできないぞ」と心のどこかで気にしている品物といえるかもしれず、だからこそ「私たちの食堂ではプラスチックのストローを使うのやめます」と宣伝すると効果が大きい。
もちろん、一方ではこれもみんな感じている通り、これが「きっかけ」以上の何かになるかというと、難しいのは確かである。ストローは、使い捨てにされるとはいえ、店内で使われて利用が完結することが多く、したがって海洋ゴミにはなりにくい。使われているプラスチック量も、お惣菜やコンビニ弁当の箱などに比べてあまりにも少ない。レジ袋などの袋類に比べると、かさのわりに重いので風で飛散しにくい。だからプラスチックストローを全廃しても、海洋マイクロプラスチックを実質的に減らす役にはほとんど立たないように思える。
さらに身も蓋もないことを言えば、海にむかってもっともプラスチックを捨てている国は日本ではない。ある統計によると、日本は国別では世界30位、その量は全体の0.4%にすぎないそうである。これをあまり信用しすぎてもいけないのかもしれないが、私たちが日本でいくら気をつけたとしても、仮にゼロにしても、それだけでは何も変わらない、世界のプラスチックゴミを大きく減らすことは不可能だ、ということでもある。これを知ってしまうと、日本の、私たちがよく見るストローを云々するのはちょっとむなしい。いや、こうしたことを考える「きっかけ」としてはいずれにしても意味があることではあるが(現に私もきっかけを与えられて、このことを知ったのである)。
とはいえ、この海のどこかに大きなプラスチックのかたまりがあり、それがいつまでもそのままの姿で海を漂い続けている、というのはイメージ的にたいへん恐ろしい話である。これはずっとこのままなのだろうか。もしもこの先人類が滅亡して、なん千年、なん万年、なん億年経過しても、そのままでいるのだろうか。
たぶんそんなことはない。そもそも、プラスチックが変化しないのは「それを食べる生物がいない」という偶然によるところが多い。火をつけたら燃えることからわかるように、プラスチック自体は燃焼(酸素との結合)によってエネルギーを得ることができる物質で、従って消化さえできれば食べ物としての価値がある。分解して消化できない理由はとくにない。ただ、自然界にそんなに存在しなかったため、それを食べる生き物が進化しなかったのだろう。
そう、今やその事情は変わっている。変わっているのだ。だから今や海に大きなプラスチックのかたまりがあると言ったではないか。その周りにいる微生物は、微生物だからなにしろたくさんあって、寿命も短くてがんがん代替わりしている。新型コロナウィルスでもさんざん思い知らされた通り、サイズが小さい生き物(ウィルスは生き物ではないが)はすぐに変異して新たな形質を獲得するものである。そうしたある種の微生物が、プラスチックを分解消化する能力を身につけるのは、まず、ありそうなことではないだろうか。
いったんそのような「プラスチック分解生物」が生まれると、その能力はプラスチックの多い環境で有利に働き、海洋マイクロプラスチック団塊の周囲という特殊な環境においては栄養の得やすさから多数派になる。それらは海洋プラスチックを食べ、そこから栄養を得て、さらに増える。海洋プラスチック問題は、こうして生まれたプラスチック分解生物によって自動解決されるかもしれない。
いいことではないか。そうではない。いったんそうした生き物が生まれると、それは海流に乗って風に乗って世界に広がる。かもしれない。そうなったらどうなるか。我々が利用しているプラスチック製品、そのあれこれを、この生き物が分解し始めるのである。プラスチックは、ストローやレジ袋やコンビニでもらうスプーンだけではない。食べ物から灯油まで、輸送や保存に使われる容器や包装はほとんどがプラスチックであり、軽くて丈夫で腐らないことから広範に利用されている。レトルト食品と灯油容器と発泡スチロールがなくなったらどうしたらいいのか。軽くて丈夫で電気を通さない性質から、ケーブル等の絶縁部をはじめ、家電や車もプラスチックの部分は多い。衣類や建材などへの利用もされている。プラスチックはありとあらゆるものに使われているのだ。
こうしたものが腐り始める。保存容器として使っていたものが、空気中に置いておくだけで「プラスチック喰い虫」によって分解されてしまう。衣類も種類によっては箪笥にしまっておくと虫食いが発生することがあるが、あれと同じことがプラスチックでも起きるわけである。いままで基本的に永久不変だと思っていたあらゆる容器は破壊され、絶縁は保たれない。家電は故障し、溶けてなくなる。車や家屋にプラスチック部品は使えない。ペットボトルは容器が腐らないためだけに冷蔵庫にしまう必要がある(中身がからっぽでも)。災害に備えた保存用の水や食料は、これからはすべて缶詰にする必要があるだろう。
文明ははたして持ちこたえられるだろうか。なんとかするだろうが、面倒なのは確かである。それ以前の問題として、本当にそんなことが起きるだろうか。わからない。未来のことは何もわからないが、海洋プラスチックはなんとかしたほうがいいような気がしてくるのは確かである。そのために「身近なことからコツコツ」ではない、象徴的で意味のないストローやレジ袋有料化ではない、何か抜本的な対策ができるのかどうか、こんな私にはどうにもわからないが、考えるきっかけにしてほしいと思って書きました。いやそんなひどい。