一を聞いて十を知らない

 物語のよくあるパターンとして「試験」を取り扱ったものがある。生徒や学生にとって身近であるからか、試験は現代的なエンターテイメントでも多く取り上げられるモチーフで、ハンター試験とか、中忍試験とか、懐かしく思い出されるが、特に「謎の行為が実は試験だった」という話が一つの型としてある。つまり「えんどう豆の上に寝たお姫様」のような、一見して意味がわからない行為によって相手をはかる物語である。もっと有名なところでは金の斧銀の斧の話、木こりが落とした斧が金の斧か銀の斧か泉の精霊が訊ねる話だが、これは木こりの正直さを試す話であると言える。運良く木こりは「どちらでもない」と正解を答え褒賞を得るが、もしも「断然金の斧です。価格が違うぜ!」などと答えていたらどのような目に遭っていたか、想像するだに恐ろしい。

 運良く。そう、運良くである。確かにこの試練は訪れる者の正直さを測定するために考案されたものだろう。嘘をついて高価な金銀を手に入れようとする行為は、おそらく欲深い嘘つきのものであり、報われなくて当然に違いない。ただ、本当にそうか、百パーセントそれで「斧落とし者」の人となりを判別できのるかというと、そんなことはないだろう。「鉄のはなかったですか。ほら泉の底とかに」「そこになかったらないですね」みたいな会話があったりして、つい考えすぎて、鉄の斧はどっちかというと銀色に近いなあ、などと思ってしまったりするかもしれない。泉の精がいるくらいだからリアリティレベル的に鉄の斧が錬金術的なあれによって材質が変化した可能性もあるのでは、などと思いついてしまって、結果、泉の精を怒らせてしまっては泣くに泣けない。

 実に、あらゆる試験は真の姿を知るために考案されるが、真の姿そのものではない。あらゆる試験にはまぐれ等により本来不合格にするべきものを合格にしてしまう誤り(たとえばいまこれを「偽陽性」と呼ぼう)と、本来合格するだけの実力があったにもかかわらず不運や試験の不備により不合格にしてしまう誤り(こちらはさしずめ「偽陰性」)を内包しており、どちらもゼロにすることはできない。偽陽性と偽陰性は注意深く設計された試験によって減らすことはできるが、泉の精のように単一の質問と返答によって木こりの人となりを判断しようというのは、容易なことではないだろう。

 しかしながらそれでも「試験」は魅力的であり、だからこそ物語になっている。「これを見ればすべてがわかる」「試験をくぐり抜けてきたものには実力がある」が幻想だとしても、それは甘美な幻想である。おそらくそのために「魚の食べ方を見ればすべてわかる」「挨拶ができない人間は何をやらせてもダメだ」のような考え方は広く信じられているのだろう。デートの相手を連れてゆくレストランによって試す。返信不要ですと書いたメールにそれでもお礼を書いてくるかどうかで営業マンの信頼性を試す。これらはすべて、ある簡単な試験によってその人の全能力を測定できるという、一種の信仰によるものである。

 おそらく、こういうのはすべて「偽陽性」と「偽陰性」を無視した危険な発想であり、もしかしたら差別にもつながるかもしれない、よくない考え方なのだと思う。たとえば娘が結婚相手を連れてきたとして、その人格は「箸の持ち方」や「ぬいだ靴を揃えるか」ではなく、できるだけ多角的に見極めたい(見極めてどうするものでもないかもしれないが)。入試だって本当は一発勝負で測った学力ではなく、どうにかして測定した本当の意欲や能力をもって判断したいのではないか。物事のある一面を見て他のすべてを把握したような気になるのは危険だし、傲慢である。ただ、それはそういうものと書いておいた上で、たいへん申し訳ないことだが、私にもそういうのがあると最近自分で気がついた。誤差である。

 誤差だ。二回書いたが、誤差である。誤差が扱えないやつには何をやらせてもだめだ。いやそんなことはないが、自然界や社会の数字を扱う上で誤差を意識しているかどうかは非常に重要なことで、現実世界を数字で扱う能力があるかどうかについて、かなり確かな目安になる。報道などで誤差が意識されていない数値は、見ただけでそれとわかることが多いし、おそらくは信用できないと判断できる。ああ世間が、他の人がどう思うかはわからないさ。しかし私はそう思うのである。

 誤差は非常に大切な概念だが、意外に学校では教えられていない。中学までの授業では軽く触れられるだけのようで、高校の物理をちゃんとやらないと、もしかしたら知らないまま大人になるのかもしれない。ところがその意味するところは重大で、要するに身の回りの数字、長さや重さや速さや時間や消費電力は、実はすべて二つ組の数値として取り扱う必要がある、という概念の大転換を伴うものである。すなわち「値」と「誤差」である。値はその大きさを表す。誤差はその値がどれくらい確かであるか、あるはずの「真の値」が、我々がせいぜい知ることができた「測定値」からどれだけずれる可能性があるかを示す。というより、真の値は常にふんわりした誤差の霧の向こうにあり、おぼろげにしかつかむことができない。誤差で見積もったある範囲の中にある確率が高い、ということしか言えない。そういう考え方に基づくものである。

 誤差の大小はその値の信頼性を教えてくれる。毎日測定して一定期間の平均をとった「身長170cm」はかなりの程度信頼がおける、誤差が小さい値だろうが、逃げてゆく犯人を見送った目撃者の「170cmぐらいだった」という証言には大きな誤差を含むに違いない。この二つの値を同列に扱ってはいけないということである。誤差の範囲を値のあとにつけて「170±1cm」とか「170±5cm」などと書いたりする。 前者の身長の真の値はある確率で169cm〜171cmの範囲におさまるだろうが、後者は同じ確率で165cm〜175cmの範囲内のどこかにずれる可能性がある。同じ170cmでもまったく性質の異なる数字であるわけである。

 たいへん面倒なことだが、知ってしまうと当然こういう扱いは必要に思える。さらに、この数字を使って何かを計算する時「誤差伝播」というちょっと複雑な考え方に基づいて最終的な計算結果を出す。いま、逃げていった犯人の身長は「170cmくらい」だったとする。体格からして「たぶん体重80kgくらいかな」という証言がある。ではたとえば、ここからBMIを計算する必要があったとしよう。BMIとはBody Mass Indexの略で、太りすぎてはいないかを見るための指標である。犯人の健康を心配してもしかたがないが、なぜかそうする必要があったとして、まあいいのだとにかく計算したい。「BMI 計算」で検索すると、親切にも、身長体重を入れるとBMIを計算してくれるサイトがいくつもある。計算してみよう。身長170cm。体重80kg。すると27.68と出た。先生。犯人のBMIは27.68です。

 何をやらせてもダメだ、と言いたくならないか。ならないか。「27.68」。なるほど、電卓を叩くとそんな感じの数字が出てくるのかもしれない。しかし特に「.68」のあたり、はっきり言えばゴミである。塵芥である。廃棄物である。自分で筆算したわけでもなくスマホで検索して労せずして得た数字を右から左に書いているだけというのも腹がたつが、そのようなサイトになんと書いてあろうと「.68」は断固捨ててしまうべきハシタであり、それは計算のもとになった値に誤差が大きいからである。この場合、身長は確かに170.00……cmなのか。体重は80.00……kgなのか。そんなことはないのだ。見た目で判断したのだからたぶん前者は±5cm、後者はもっとひどくて±10kgくらいの見積もり誤差はあるだろう。誤差伝播の考え方に基づくと、ここから「BMIの誤差」が計算できて、3.8となる。誤差の見積もり自体いい加減だから、BMIはまあ28±4とするのが妥当だろう。犯人のBMIは24〜32のあたりにあるであろう、ということであり、この大きな誤差範囲に比べると「.68」がいかにも誤差の霧の向こうの数字であり、意味がないか、ゴミであり塵芥であり廃棄物であるかがわかると思う。

 電卓で出てきた数字を全部信用していいわけではない。計算がよって立つ値の誤差を考えて、どこまで信頼できるかをきちんと表すべきである。計算に使った数値に一つでも「わからないがまあ三倍と見積もろう」みたいなのがあると出てくる数字の誤差は極端に大きくなり、たくさんの桁数の数字を出す資格はその瞬間に消失する。そうしたことをあまりよく考えず、ずらずらと小数点以下の数字を書き連ねるのは、非常に程度の低いことだ。

 魚の食べ方でその人のすべてはわからない。ただ、たとえば報道にかかわる人間が、誤差の考え方抜きに数字を扱うのはかなり危険なことだと思う。何をやらせてもダメではないかもしれないが、プロとしてどうか。これで合格不合格が測定できるのではないか。

 そう、ここまでを読まれた方には先刻ご承知の通り、どんなものにも誤差があり、この場合もまた偽陽性と偽陰性は当然あるのであった。真の値は常に誤差の霧の中にある。


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