超戦士桃太郎の伝説

「桃太郎」の昔話で、もしもおばあさんが桃を持って帰らなかったらどうなっていたか、というのは誰もが考えてみるところだと思う。いやそんなことないか。そんなことないかもしれないが、まあそういうことにしてください。おばあさんが桃に興味を示さない。あるいは大きすぎる桃に恐怖を感じて手出ししない。またはたまたまよそ見をしていて見逃してしまう。こういうことはどれもありうることで、そうすれば桃太郎の話は始まらない。始まる前に終わってしまう。

 そうだろうか。どうだろうか。そもそも「なぜ桃の中に赤ん坊がいたのか」「桃太郎とはなんなのか」など、この物語には謎が多いが、どちらかといえば「本来おばあさんは桃に気付き、持ち帰るはずだ。そうしなかったらどうなっていただろう」よりは「本来おばあさんは桃には気づかなかったはずだ」と考える方が、問いの立て方としてはより自然に見える。もしもおばあさんが洗濯に行かなければ。他の仕事をしようと思ったり、別の川に行ったり、別の時に行ったりしたら。「おばあさんが桃を拾った状況」よりも「おばあさんが桃を拾わなかった状況」のほうがずっと起こりそうであるし、もともとはそちらを意図して桃太郎は流された、と考えるほうが自然ではないだろうか。

 そうだ。そもそも川には桃は流れていない。仮に流れていたとして、そこに赤ん坊は入っていない。だからして、桃に赤ん坊を入れ、川に流した誰かがいるはずなのだ。自然にそうしたことが起きるはずはない。荒野に時計が落ちていたら必ずその時計の設計者がいるはずだし、川に赤ちゃん入りの桃が流れてきたら、必ず流した誰か知性的存在がいるはずなのである。その存在は、赤ん坊入りの桃を製造し、ほぼ間違いなく、誰にも拾われることはないだろうと考えて流したはずである。なぜならば、おばあさんが桃と出会いそれを拾い持ち帰ることは「たまたま」でしかないからだ。

 物事のもっとありそうななりゆき、おばあさんが桃と出会わなかった未来を想像してみよう。本来桃太郎と名付けられるはずだった赤ん坊を蔵した桃は川を流れ、流れていって、最後は海に着いただろう。そうなると赤ん坊はどうなっただろう。そのまま桃の中で死を迎えることになったろうか。そんなはずはあるまい。赤ん坊を桃に入れて流した存在は、そのような未来に向けて生命を送り出したのではないはずである。おばあさんに拾われなかった桃は、しかし無駄になることはなく、何か創造主の考えた役割を果たしたはずである。

 我々は想像する。桃は保育器ではなかったか。中身の赤ん坊の生命を維持し、急速に成長させ、立派な若者として成長させた後に役割を終える保育器ではなかったかと。さよう物語においてはそうではなかった。たまたまその途中でおばあさんが拾い、家に持ち帰って保育器を破壊した。しかし本来、そのままにしておけば、桃の中で立派に成長した赤ん坊は戦士として覚醒し、自ら桃を破ってこの世に現れる計画ではなかったか。

 川の流れてゆく先は海である。そこには鬼ヶ島がある。鬼ヶ島に流れ着いた桃を内側から破り、生まれる超戦士。その肉体は桃型の保育器によって、極限まで鍛え抜かれている。桃を抜け出した超戦士は、本能のまま、鬼ヶ島にいるすべての生き物を、すなわち鬼を、根絶やしにするために戦いを始める。その血みどろの戦いは、鬼をすべて倒すまで終わらない。鬼を倒すべく送り込まれた超戦士は、こうして役割を果たし、凶暴な鬼たちと自らの流した膨大な血の海の中、その戦士としての短い生命を終える。

 そうではなかったことを我々は知っている。おじいさんとおばあさんに、まだ超戦士として覚醒する前に、赤ん坊のうち拾われた桃太郎は、超戦士ではなくただの「人間」として育てられ、一膳食べたら一膳だけ、三膳食べたら三膳だけ、すくすくと育つことになる。人間の生を与えられ、人間として愛され、育まれた「桃太郎」は、人間としての愛を、情けを、友情を胸に育つ。やがてかれは「鬼ヶ島」という生涯の目標を見つけ、戦いの道を選ぶ。しかしそれは最初の運命に奇妙に似通ってはいるが、しかしあくまで自分の力で掴み取った、自分だけの人生の目標であった。

 桃太郎は鬼と相対して、かすかに意識するだろう。自分が本来そうであった超戦士。鬼を殺戮し、傾いた天秤をもとに戻し、世界の平穏を保つ自分の役割を。しかし桃太郎はもうそんな戦闘機械ではない。傍では犬が吠え、猿が跳ね、そして雉が頼もしく空を飛ぶ。おれは桃太郎だ。誰がなんといっても、おじいさんとおばあさんに育てられた桃太郎なのだ。

 桃太郎はいつまでも幸せに暮らしました。しかしそれがほんの偶然、運命のいたずらによってようやく得られた未来であったことを、桃太郎も、また読者のみなさんも、知ることはなかったのである。おしまい。


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