未来を選べドラえもん

 子供の頃「ドラえもん」のまんがを読んで、ある種のひみつ道具の影響について心配したことがあった。ドラえもんが出す道具はのび太やその周辺にだけ局所的な効果を与えて終わる話もあるが、一方で日本全体、世界全体に多大な影響を及ぼすような「大きな物語」もある。これは物語上どういう扱いになっているのか。いわば世界がめちゃくちゃになるのだが、後始末はどうしたのか。次の話では何事もなかったように元通りになっている。いったい何が起こったのだろう。

 例としては、たとえば「どくさいスイッチ」の話を思い出されたい。これは誰かを思い浮かべてスイッチを押すとその相手が消える(最初からいなかったことになってしまう)という道具である。のび太はこれを使って身近な邪魔者を次々と消してゆき、最後に世界中の人間全員を消してしまう。のび太はやがてそのことを反省し、道具の本当の目的が明かされるわけだが、すべての人間が突然にいなくなった世界がどのように変化し、それがどう元に戻ったかについては、よく考えると不安になる。世界中の人が最初からいなかったことになるとしたら、世界はどのように変容しただろう。それは破滅的で決定的な変化ではないだろうか。この後始末をするとしたら、世界中すべてに手を入れ、すべての人の記憶を消して回る必要があるのではないか。もちろん、使用者だけが見られるある種の仮想現実を作り出す装置と解釈すれば矛盾ないのだが、それはあまりに味気ない。実際にそれが起きていると考えないと迫力がないわけだが、そうであるならば影響力の大きいひみつ道具の後始末はたいへんそう、と子供の私は思った。

 もちろんそれがどんなに大変であれ、ドラえもんがまた別の装置を使い、後始末を行なっている(それは退屈であるので描写されない)という解釈はあると思うが、もう一つ、のび太やその周辺に経験が蓄積しないように見えるのは、どう考えればよいのだろうか。のび太はドラえもんに何度もひみつ道具を出してもらい、すぐに殴ってくるジャイアンやおもちゃを自慢するスネ夫に一泡吹かせる。それは最終的にはうまくいかないことも多いのだが、ジャイアンやスネ夫にしてみればのび太は「ドラえもんがついている存在」であり、簡単に暴力や自慢の対象とするのは危ない、とすぐに学習しそうなものである。かれらも時々は「またドラえもんになんとかしてもらうつもりだ」などと考えたり、その考えにのっとって行動したりもするのだが、彼ら友達や、先生や親の、のび太に対する基本的な接し方がほとんど変化しないのは奇妙に思える。のび太はいつまで経っても「運動も勉強もダメな子」として扱われる。普通に考えて、ドラえもんが家にいる子は「ダメな子」ではありえない。「非常に特別な子」である。特に映画のドラえもんの大冒険を経て、関係性の変化も成長もないのはいかにも不思議に思える。

 納得のいく回答としては「ドラえもんは一話完結のギャグまんがであり、物語が終了すると破壊された世界を含めてすべては元に戻る。人々の意識も決定的で不可逆な変化を起こすことはなく、事件のスタートの状態に常に戻る。これはフォーマット的に作者と読者がかわしている無言の約束であり、これがあるから読者は安心して新しい話が読める」ということだろう。明らかにそうだ。無粋な指摘はやめよう。この話はおしまい。ああよかった。

 いやもう少し続けるが、しかしここで上記の物語としてのドラえもんの構造は、ドラえもんが持つ道具を使えば簡単に実現できるということが思い出される。タイムマシンである。そう、(設定的に)タイムマシンこそは、破壊された世界、経験を積み変化した人々の意識、それらを全部無かったことにして簡単に元に戻せる道具だ。一つの話が終わるごとに、ドラえもんはタイムマシンに乗り、事件が始まる前の時間に戻る。そして事件(道具を出し、のび太がそれを使い、世界のありかたや人々の心を決定的に変える)の前にそれを食い止める。これならば事件ごとにいちいち別の道具で修復する必要はないし、多数の人々の記憶を操作するという、無理のある行動をする必要もないのである。

 考えれば考えるほど、実際そうなのではないかと思えてくる。ドラえもんはそもそも未来の世界から、未来を変えるためにやってきた。のび太の人生を変化させることによって、遠い未来ののび太の子孫(セワシ)の生活を改善させるというのが目的だったはずである。「未来を変えなければならない」「しかしそれはセワシが存在しない未来であってはならない」という、結構難しいミッションであり、話の中で一応の説明がされるのだが、これも子供の頃の私が「本当にそんなことができるのか」と心配に思ったところだった。

 あなたがドラえもんだったとする。過去に手を加えて、未来を変化させる任務を負っている。変化といっても、映らないテレビを殴って調整するような大雑把なものではダメだ。登場人物は変わらないがかれらが演じる物語は変わる程度の、微妙な、ごくごく微妙な調整が必要である。過去をどのように変化させればそれが達成できるか。とにかくのび太くんに勉強させればよいのか。そんな簡単なものではないのは確かである。

 わかるわけがない。ドラえもんは考えるだろう。自分やのび太の行動によって、未来がどう変わったかモニタしながら、とにかく歴史を変化させてみればよい。のび太にあらゆる種類の働きかけを行う。なにが功を奏するかはわからないのだから、何でもやってみる。未来の進んだ科学技術のたまものであるひみつ道具を行き当たりばったりに与えたり、時には道具に頼らず、ハッパをかけるにとどめて変化を見る。未来が大きく変わってしまったり、悪い方に変わってしまったら失敗であるが、失敗はなんでもない。何度でもやりなおせばよい。タイムマシンで元に戻ってやり直すのだ。しかしもしもある時、セワシが存在したまま、かれの生活が良い方に変わっていれば。そのようなことがたまたまの偶然によって起きるかもしれない。そうすれば、これで初めてドラえもんの任務は成功である。ドラえもんは(それ以上歴史を変えないように慎重に)のび太と別れ、未来の世界に帰ることができるだろう。

 これならば、このタイムマシン無限試行法であれば、自分の行動と未来の変化の間に何の関連もないように見えても、やっているうちにいい結果が得られるかもしれない。考えてみれば、殴ってテレビを直すことはできないが、これは通常「何度も試せない」からである。もしも殴る前に戻ってやり直せるのであれば、そして十分長く殴り続けられるのであれば、しまいにはどんな故障も殴るだけで直せるのではないだろうか。例え話としてよくあるものとして、ジェット旅客機の部品を並べておいたら、台風がやってきて部品が全部正しい位置に組み上がるみたいな確率かもしれない。しかし、悠久の時と辛抱強さがあれば、実際これは可能なことである。なのでドラえもんはそうする。自分はロボットであり、人間にはない性質として頑丈さを持っている。であれば、このようにするだろう。他に方法などないのだから。

 ドラえもんは巻き戻す。未来の状況をモニタしながら、あらゆる道具を出してのび太と関わる。ほとんどの場合それはうまくいかない。幸いにして無限の時間を生きることができるロボットのドラえもんにはまったく苦にならない。ドラえもんの毎日は、のび太との日々は、失敗した試行として毎日巻き戻されて消えてゆき、それを眺める特権を得られた我々読者の心にしか残らない。ドラえもんで起きた事件はこうしてほとんどがなかったことになり、そのほんの一部だけが確定した過去として残される。世界も崩壊しないし、ジャイアンやスネ夫がのび太を怖がり始めることもまたない(映画の大冒険で得た経験が無に帰するのはドラえもんにとってもつらいことだろうが、未来によい影響を与えないということでこれも消される)。もっと言えば、のび太にとっての時間はほとんど経過せず、いつまでも小学生の生活が続くのである。これは徹頭徹尾私が考えたことだが、ドラえもんの物語世界を実にうまく説明できているように思える。

 このように考えると、ドラえもんにおけるタイムマシンが、ドラえもんが持つさまざまな道具のうち「四次元ポケット」から出てこない、いわば外部的な道具として設定されているのは実に示唆的に思える。よくある、ドラえもんの道具のうち一つ使えるとしたら、という質問に「ドラえもんそのもの」と答える人にはタイムマシンは得られないわけである。しかしそれが物語の中で、もっとも重要な道具であるのも、このように考えると、また確かなことである。


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