いつも地震は予想もしなかった時に訪れる。ここにも何回か書いていたと思うのだが、二十代のある朝突然に、大学の近くの下宿で阪神淡路大震災に被災した私だが、そのときにはとても思ってもみなかったこととして、その後、茨城で東日本大震災を経験することになった。二つともさまざまなものを破壊してゆき、それぞれ私の人生をそれらの前後で大きく変えた。ただ、この二つを経験して大きく違ったのは、東日本のほうは余震が非常に多かったことである。たぶん地震を引き起こしたメカニズム的な違いではないかと思われるが、東日本のほうは大小の余震が大地震のあとかなり頻繁に、いつまでも起きていた。幸い私の周辺では余震によって大きな被害はなかったのだが、しばしば睡眠を邪魔されたのはつらいことだった。毎日何回もあった余震は、それから12年くらい経つうちに少なくなっていったものの、なぜかはわからないが関東で起きたどんな地震もだいたい茨城は揺れるので、生涯における地震の経験だけはかなりのものになっている。
ただ、そのことで何か「地震感覚」のようなものができているかというと、そんなことはない。揺れがあるといつも身を固くして被害に備えるとともに、「いまこの位置は震度何くらいか」と「どのくらいの距離で感じるどのくらいの大きさの地震か」を当てようと試みる。つまり震度とマグニチュードである。前者、今の揺れは震度3くらいか、震度2にとどまるかなどは、私でもそこそこの精度で当てられるようだ。ただマグニチュードのほう、要するに「近くの小さな地震か遠くの大きな地震か」についてはあまりうまく予想できていない。「これは遠くの大地震だ、たいへんだ」と思っても意外とそうではなかったりするし、ひどいときは地震だと思ったら単に前の道で重いトラックが跳ねた揺れだったりする。感覚は当てにならないものである。
この「マグニチュード」については、これがなんなのか、どうもふつうはあまり理解されていない、と少なくともNHKは思っているらしい。地震があると各地の震度を伝えたあと、かならず「地震の規模を示すマグニチュードは」とひとくち解説とともにマグニチュードという言葉を伝えているようだ。月食のことを必ず「月が地球の影に入る月食」と報じるのと同じであり、みんなマグニチュードがなんであるのかいまいちわかっていない、そのまま伝えると誤解されやすい数値だと考えているのだろう。このへんの国民の科学の知識をどう見積もっているのか、どの範囲が常識でどこからが解説するべき知識であるとしているのかよくわからない。マグニチュードは中学の理科で習うから、大人であれば基本的に誰でも知っているとみなせると思うのだが、まあ、人はいろんな人がいるし、いちいち「地震の規模を示すマグニチュード」と言うくらいはなんでもないことである。
このマグニチュードだが、以前私の地元の高校入試でこれに関する面白い問題が出題されたことがあり、なんとなくいつまでも覚えている。いわく「マグニチュードが2違うと地震のエネルギーはどれだけ異なるか」というものである。これは中学校で習うにしては理解が難しい類の事柄だが、マグニチュードは対数単位であり、マグニチュードが1増えるごとに地震の規模は約32倍になる。これを覚えていると、2違うのだから32倍の32倍で、1024倍だろう、と答えたくなるわけだがつまりそれは間違いである。実は「マグニチュードは2違うと1000倍」が定義であり、1違うと32倍とするのは「10√10倍」、31.622……倍を丸めたものなのだ。定義から派生した概数ではなく、より本質的な情報を覚えているかを問う問題だったといえる。
震源の位置や深さによっても異なるわけだが、ちょっとした揺れを生じさせる小さな地震のマグニチュードはだいたい3から4といったところである。震源の近くであれば震度4、5になるような大きめの地震で6くらいのようだ。記録によれば阪神淡路大震災のマグニチュードは7.3、東日本大震災のマグニチュードが9である。マグニチュードは地震によって解放されるエネルギーを表しているわけだが、そのエネルギーは実際どのくらいなのか。マグニチュード(モーメントマグニチュード)が1になるエネルギーを調べると約2メガジュールであった。わかりやすい数字で言うと約600ワットアワー、電気ストーブを1時間ぶっつづけでつけたくらいのエネルギー消費量である。ここからマグニチュードで2増えるごとにエネルギーが1000倍だったから、マグニチュード3だと2ギガジュール、5だと2テラジュールということになる。2増えるごとにSI接頭辞一つ分桁が繰り上がるので、わかりやすいというか、気が遠くなる思いである。マグニチュード9は2エクサジュールであり、なんなんだエクサ初めてであったぞエクサという気持ちになる。こういわれたところでほとんど想像できない。ただ、マグニチュードが2上がるごとにエネルギーが1000倍になることをよく考えると、アイデアとしての「大きな地震のかわりに小さな地震多数でエネルギーをどうにかして解放すればいいのに」はなかなか難しそうなことはわかる。
ところで、マグニチュードがそういうものであるのなら、小さいほうの地震、上の「地面が揺れたがトラックがぴょんと跳ねたせいだった」というものにもそれなりのマグニチュードを定義できるはずである。大きな地震で数字が増えてゆくように、小さな地震ではマグニチュードの数字が小さくなる。同じように対数目盛である星の明るさで0等星、マイナス1等星があるように、じゅうぶんに小さい地震ではマグニチュードの数字もゼロやマイナスの数字になる。これは面白い問題なのでちょっと考えてみよう。いま、トラックがぴょんと跳ねたとする。一般的な大型トラックの車両総重量(トラック自体の重さに荷物の重さを足したもの)は20トンくらいらしい。20トンのトラックが道路の突起でぴょんと跳ねて、まあ1センチくらい落ちたとする。このときの振動のエネルギーは当然、質量×重力加速度×距離であるので、約2キロジュールである。やけにぴったりした数値になったが、上の「マグニチュードが2増えるごとにSI接頭辞ひとつぶん桁が増える」を見るとかんたんにトラックのマグニチュードが出る。つまり、マグニチュードマイナス1だ。トラックがぴょんと跳んで落ちるたびに、マグニチュードマイナス1付近の規模の地震が発生していることになる。こんなのでも近くにいると体感できる揺れになるのはちょっと面白い。
もっと考えよう。質量2キログラムの、つまり2リットル入りのお茶とかが入っているペットボトルを10センチの高さからどすんと地面に置いたとする。このときに発生するエネルギーは2ジュールである。トラックに比べるとだいぶ小さくて、この揺れを体感できることはないだろうが、これがちょうどトラックの1/1000の揺れということになる。マグニチュードマイナス3である。このくらいのレベルになると、私たちが歩いたり、走ったり、跳んだり、ものを持ち上げたり、置いたり、そうした日常生活がこのへんに位置することになる。
マグニチュードのスケールを眺めると、その端に未曾有の大災害があって悄然とする一方で、もう一方の端にはどすんと落ちたペットボトルがあって、数字のたった12の物差しの内のどこかに配置されていることがわかって、すこし感慨深い。私が歩いてきた道のすべてがここに入っているかと思うと不思議な感じがする。