ガチャっとKANSAI

 このサイトができた頃(1998年ごろ)にはまだ独身だった私だが、それからいろんなことがあった。結婚し、就職し子供が生まれ、また生まれ、さらに生まれた。夢のようだったインターネットはちょっと休んで現実を生きるか、と思っているうちに人生が重くおもくなってゆき、その三人目の子がいま高校3年生であり、そろそろ本当に子育てが終わってしまうところである。端的に言っておそろしい。こういうルールで物事が動いていると、そういうものであると、若い時に誰も教えてくれなかったのは不思議なことである。

 そういう私だが、果たして人の親としてよくやってきたか、なすべきことを全部できていたかというと、とても自信はない。子供から見て親としてどうだったのか。最低限やるべきことはできていたと思うのだけど、よい親であったかどうかはわからない。だから子供として「しかたない」「こんなものだろう」「多くを望むとバチがあたる」等と思っていてくれていたらありがたいのだが、あらを探し始めるとかなりつらい。最近メディア等に取り上げられた言葉だが「親ガチャ」というような言葉を聞くと、血が凍る思いをする。もっとよい親でいられたのではないか、ガチャとしてみた場合にハズレだったのではないかと思うだに辛いことである。

 この「親ガチャ」という言葉、しかしよく考えてみると違和感がある。これは当然ながら、「どんな親から生まれるか」によって人生が大きく変わる状況を、ソーシャルゲームなどによくある「ガチャ」に例えたものだろう。ガチャはくじ引きである。スーパーマーケットの店頭にある物理的なガチャであれば、お金を投入してレバーを回すとカプセルに入ったおもちゃが出る。何かが出ることは決まっているが、一定の範囲内でどれが出るかはわからない。自分にとって大当たりもあれば、ハズレに思えるものもある。ゲームでの「ガチャ」も出るのが物理的な存在ではなく電子データであることを除けば同じゲーム性を持ったものであろう。物理的なガチャには大外れはないが、ゲームのガチャにはハズレがいっぱいある。そういうものだと聞いている。

 そう考えると「どんな親から生まれるか」と、ゲームにおける「ガチャ」は似ているようで違う。まず「どんな親から生まれるか」は、

○人生において一度きり引くことができ、
○やりなおしはできず、
○それでいて人生を左右する重大な、
○くじびき

である。実際にはどんな親のところにどんな子供が生まれるかの原因と結果が前もってあって、魂というか、なにか人間のアイデンティティのようなものが「どの親から生まれるかを選ぶ」というものではないだろうが、まあ言いたいことはわかる。重要なのは結果のランダム性と、その重大さだろう。

 しかし一般にはガチャとはそういうものではないはずである。このへん、私自身がガチャを内蔵しているゲームにそれほど詳しくないので間違っていたら申し訳ないが、私の理解ではガチャとは、

○一般に何度でも引き直しができる、
○お小遣いの範囲内でやりなおしが効く、
○ゲームを左右するほど重大であることもあるが、多くの場合そうでもない、
○くじびき

であるはずである。結果が気に入らず、また自分の懐がイエスというのであれば、もう一回引き直しができる。その気になれば、そしてお金持ちであれば、何度だって気に入るまで引けばよい。私は思うのだが、ガチャはそういうものなので「どんな親から生まれるか」と「ガチャ」は似ても似つかないものではないか。むしろ共通点は「くじびき」というごく表層的な部分だけではないか。

 あるいは「映画館ガチャ」という、ぐっと最近になって聞いた別の例えの方がより本来のガチャに近いかもしれない。これは「映画館で周囲の観客がどのような人間であるのかのランダム性と結果の重大さ」をガチャにたとえたものである。映画館で隣り合った人がよい観客であるとは限らない。上映中におしゃべりをしたり、音を立ててお菓子を食べたり、スマホを見たり、あまつさえ電話を始めたり、あろうことか何を考えたのか前の座席を蹴り始めたり、そういうことをされては観劇が台無しになるということだろう。こちらもやはり「一回きりやり直しできないくじ引き」の意味として使われている気がするが、実際問題として「いい結果が出るまで何度でも(お金を使って)引き直せる」要素は少しはある。同じ映画を一回しか観に行ってはいけないというルールはないからだ。それであればこちらのほうはまだしも「ガチャ」と同じ要素を持つと言える。

 と、そこで私は気がついたのだが、一般のスマホゲームにおける「ガチャ」はどうなのだろうか。スーパーマーケットにある物理ガチャは確かに望むだけ何度も引けるし、結果はまったく重大ではない。しかし普通の人にとってゲーム上のガチャはどうなのか。そんなに何度も引けるものなのだろうか。

 ゲームをする。そんなに本気でやるつもりはない。だいいちこのゲームにそんなに好きとかこれに青春を賭けようとか、そういう思い入れはない。テレビの広告を見たり友達がやっていて面白いというので、スマホにゲームを無料でダウンロードしてなんとなく始めただけである。最初からお金なんかないし、クレカもないし、知らないゲームにお金を使うのは怖いということもあるから、お金を使わない範囲で、指先の労力と時間が許す限りにおいて真面目にプレイはするのだが、有料ガチャに手を出すつもりはない。

 こういう人にとって「ガチャ」はどういうものか。ゲーム運営者だって商売でやっているのだから、この人にどんどんくじを引かせてキャラクターやアイテムを配っていては商売にならない。むしろ「ガチャ」は、たまたま運営側から与えられる、数が限られたチャンスであるはずである。たとえばゲームをスタートする時に一定回数引くことを許される。引き終わったら容赦無く厳しいゲーム本篇が始まる、そういうものであるはずだ。引き直しはお金を使えば(課金すれば)可能なのだが、現在考えているユーザーはそんなことをするつもりはないので、その選択肢はハナから頭にない。そういう人にって、ガチャはまさに「天与の機会を使い切った後は決して引き直しができない、一回きり実施できるくじびき」「しかしながらその結果は重大でその後のプレイに大きな影響を与える」という、「親ガチャ」のイメージそのものなのでは、という気がしないだろうか。

 私は数少ないゲームの経験では、わりと、関わったゲームにはいくらかお金を使う方である。古い人間なのでまったくの無料で遊んでいると気が引けて、そんなことが許されるはずはないという気がしてきて、また少しのお金を使うことで有利にゲームが進められるのであれば、多少のお金を使うことはあまり苦ではない。しかしもしかしたら、多くのプレイヤーは無料で遊ぶのが当然であり、課金する人はそんなに多くないのかもしれない。もしも一般的に「ガチャ」のイメージが上記の通りであるなら、あるいはそのために「親ガチャ」という例えが正当化される、というか、ぴったりくるものとしてとらえられるのかもしれない。

 せっかくこの世に生まれてきた子供たちに「親ガチャ」などと言われたりしないようにするためには、一つは機会の平等を与えるべきだろう。親が子供に教育を施すのではなく、社会から十分な教育を与えてもらう。意欲と能力があれば、経済状況によらず家庭環境によらず、より高度な教育を与える社会制度を作る。そのようにするべきだ。その一方で、一般的な子供たちにとってスマホのソシャゲにおいてガチャが何度でも気に入るように引けるようにすれば、それはそれで「親ガチャ」という言い方はなくなりそうな気がする。それには経済状況を大きく好転させ、どの子もスマホでガチャを引くくらいのお小遣いは潤沢に与えられるようにすればよいのだが、ここでよく考えてみると、それはそれで、前者の目的も達成されてしまうような気がする。親ガチャという言葉をなくすこと。政治はまずそれを目指されたい。


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