夏、山道、坂の途中。耳が麻痺したように途切れなく続くセミの声の中、ふとなにもかもが悪い夢で、山道を抜ければ元通りの、懐かしいあの世界が広がっているのではないかという幻想に襲われ、その想像のあまりの甘美さに走り出し、そのまま峠までを駆けた私は、そこで、開けた視界に信じられないほどの落胆を味わった。そこにあるのは、やはり崩壊した街、私が何度か訪れたことがある地方都市の変わり果てた姿に過ぎなかった。
あの爆弾がどこからやってきて、正確にはどこを破壊していったのか、今に至るまで私にはよくわかっていない。とにかく、一つや二つではない数の爆弾があの夜この国を襲って、その中枢、大切な何かを破壊していった。核兵器、だったのかもしれない。でもそれだけではないと思う。おそらくさまざまな種類の爆弾と、それから細菌かなにかを詰め合わせにした「バクダン」が幾つか。それでこの国はおしまいだった。残ったものはどこまでも続く廃虚と、それから深遠なる運と免疫の導きによって生きのびられたほんのわずかな人々だけ。その中に私が入っていたことが良いことだったのかどうか、とにかく私は今、あの真っ赤に染まった夜空の向こう側にいて、こうして思い出の街に向けて山道を下っている。
道は、夏草に覆われ包まれつつもかろうじて踏み分け道が残っている山道から、ちょっとした広場へと繋がった。忽然と、と言ってもいい唐突さでアスファルトの舗装が始まり、私は急に軽くなった足に戸惑いながら数歩歩いて立ち止まった。背後を振り返れば、私の濡れた靴がつけた黒い足跡が点々と、ただ続いている。私は、ため息をついて座り込み、日光に焼けて熱くなったアスファルトの香りに包まれながら、ほとんど空に近いリュックを下ろす。折り癖がついて擦り切れた地図を取り出して広げる。リュックの中にはこの地図のほかには水筒、文庫本が一冊。あとは握り飯が入っているきりだ。いや、まだいけない。今食べると帰り道できっと後悔することになる。
私はあとほんの少しだけ地図を眺めて、尻の下のアスファルトの感触を楽しむと、つばを飲み込んで、畳んだ地図をリュックに入れ、かわりに文庫本を取り出すと、やっと立ち上がった。腹が減ったときは歩くことだ。幸い本がある。私は文庫本を広げて、しおりに使っている紙片のところを開き、紙を本の最後に挟み込むと、続きを読む。主人公が、このなんとかいう主人公が、どうしたところだったか。確かかれも旅をしていて、ヒロインと一緒に新しい街にたどり着いたところで、入った店で出会ったのが。
そうして本を読みながら、私はアスファルトの上を歩いた。本の中の、物語の世界を進むうちに、私の周りの風景はいつの間にか山道から集落へ、集落から街へと続き、比較的大きな建物が立ち並ぶ小さな市街地へと変わっている。かずかな記憶となかば崩れた建物の間を道は奥へと続いてゆく。私は大きなアーチの下に辿り着いて、そこで立ち止まると、本を閉じる。水筒からなまぬるい水を一口飲んで、あたりを見回した。そこはかつて商店街だった場所の入り口である。商店街の名前を記したアーチがまだ崩れもしないで建っている。
やはりというか、商店街は略奪を受けている。人口の〇・一パーセント、そのさらに一桁下だろうか。しかしとはいえ、この街にも何人か私のように生き残った人々がいたはずで、その人たちにも日々の暮らしがある。暮らしの中で、この商店街からも必要なものを調達したことだろう。そのことにはもう、慣れている。私は雑貨屋とラーメン店とだんご屋だった店、楽器店、それから薬局の前を通って商店街を歩いてゆく。何かがありそうな店は、すべてシャッターがこじ開けられ、うろのようになった暗い店内を覗き込むことができる。黒い板のような、電池の切れ果てたスマホが一台、すっかり空になった洋品店の前に落ちている。誰も拾わない。いや、それはいい。私はかすかな記憶に励まされ、瓦礫を踏み分けながら奥に進んでゆく。確か、確かこの先に。もう一つ先の通りに、確か。
だが。
そこには何もなかった。私は、なかば予期していたことながら、いざ目の当たりにしてみると、そのことに奇妙に、ほとんどまるで物理的になぐられたような衝撃を受けて、はっ、と息をついた。はっ。また息を吐く。どうしようもない。はっ。もうどうしようもないのだ。はっ。私は、このまま息が止まらないような気がして、うう、と無理に声を絞り出す。
そう、そこは書店だった。いや、書店だった場所だった。
私がかつて一度だけ来たことがある本屋さん。品揃えはそこそこ、文庫本と新書とコミックと雑誌と、あとは参考書や地図や実用書。そういうものがあった場所。人の住むところにはどこにでもあって、どんな駅にもどんな街にもあって、べつに特別ではなく、どこにでもあるような本だけを置いていて、そして、そうして。
もう、どこにもない場所。
私は記憶違いにかすかな望みを抱いて、あたりを歩き回る。ここに駐車場があり、その次が確か何かスポーツ店だった。それから書店。その書店だったはずの場所には、もう何もなく、ただ空き地だけが残されていた。間違いない。あの崩壊の前のどこかの時点で、書店は店をたたみ、建物も取り壊されたのだ。私はその小さな、その本屋がそんなに狭い場所に建っていたとは信じられないくらい小さな空き地から空を見上げた。日は少し傾いて、空き地に濃い影を投げかけている。いま引き返せば暗くなる前に戻れるだろう。戻らなければ。
私は歩き出した。文明の崩壊が、どうせやってくるならなぜ、なぜ私たちの街に本屋がある時代にやってきてくれなかったのか。なぜ、みんなが本を読むのをやめてスマホを眺めるようになり、書店がなくなってしまったあとの、そんな時代にやってきたのか。どっと出てきた気がする汗を手で拭う。考えても仕方がない。リュックの中の文庫本を取り出す気にもなれない。ただひたすら、来た道を引き返す。私は読みたい本でいっぱいにするはずだったリュックを背負って、長い八月を歩いてゆく。