利己的に考える

 あなたが喫煙者であるとする。日常的に、普通にタバコを吸っていて、べつだん健康には問題をかかえていない。また経済的にも特にタバコ代に不自由しているということはない。そこであるとき、街で呼び止められてアンケートの依頼を受けた。設問はまず「あなたは喫煙者ですか」。あなたは正直にイエスと答える。そこで見ると、次の質問には「タバコが一箱いくらなら禁煙しますか」とある。さあここは、一つ考えどころである。なんと答えるべきだろう。

 問題が「この質問にどう答えるべきか」ではなく「本当はどうであるか」なら、これは人により場合により、健康や経済状況やタバコへの嗜好の強弱によってかなりの違いがあるだろう。たとえば、一箱四百円ならまあそのまま吸い続けるだろうが六百円だと本数をかなり減らす、八百円ならいっそ禁煙する、というあたりに線を引く人は多そうな気がする。何でもいいから禁煙するきっかけを探していて、十円でも値上げがあればやめようと思っている人もいるかもしれない。逆に、手に入れるためには手段を選ばない、一箱何万円になっても吸い続ける(たぶんそうなれば非合法なものが出回ると思うのでそれを吸う)、という人だっているに違いない。しかし、問題はそこではない。現実どう思っているかはとりあえず置いて、自分の利益のためには、どう答えるのが得策だろうという問いである。

 というのも、これがもし「消費税は何パーセントであることが望ましいですか」とか「景気回復を実感していますか」などという質問なら、どう答えるのが得かは、ほぼ誰の目にも明らかだと思うのだ。つまり、消費税のごときは零パーセントが最高で、まあ仕方ないので今の五パーセントでも我慢できなくはないが、これ以上たった一パーセントでも増やされたらもはや一家で首をくくるしかない、と答えるものである。景気回復は六本木ヒルズか新丸ビルか、その他どこか聞いたこともない天上の神々の間で使われている言葉であり、自分ちの家計にはアンパン一個分も波及してきていない。と、本当にそういう人もいるはずだがこの話に関しては、ぶっちゃけた話自分の利益のためにどういう嘘をつけばいいかであり、であるからして、アンケートに「増税されたら死ぬ」「いかなるときも不景気で首が回らない」と嘘を書く人が多そうだという話である。むろんそうするべきなのだ。もし正直に答えて、結果を見た政治家あたりに「国民は豊かなのでもっとうんとこ税金をかけてやるニャ」と思われたらどうするのか。実際、発表されるこの手の調査結果では、確かにそういう傾向が見られる気がするのニャ。

 ところが、どうしたことか、この原則がタバコに関してはあまり当てはまらないらしいのである。どういう意図があるのか、たぶん健康増進の立場からではないかと思うが、実際「いくらなら禁煙」というアンケートもしばしば行われていて、たとえば、タバコ一箱が千円くらいになればかなり禁煙が進む、などという結果が得られたりしている。しているのだが、これは変ではないか。上の税金に関する答え方で明らかなように、「タバコいくらなら禁煙」という質問に対しては、喫煙者の立場としては正直に答えないほうがよい。これはちょっと考えれば明らかに思える。

 一般に、値上げと喫煙者数の関係を正確に把握されることは、喫煙者として絶対に避けたい事態である。理論上の喫煙者数(またはタバコ消費量)は、タバコ一箱の税込み価格の関数としてゆるやかな減少カーブを描くと思われるが、税収の合計、すなわち税率×タバコの消費量としては、どこかでピークを持つ、山型の曲線になるはずである。たとえば、タバコ税が今の倍になると、禁煙する人が増えるなどして消費量が40パーセント減るとする。喫煙者や、タバコ産業に関わる人はたまったものではないが、タバコ税による税収だけを見るなら、これは実は歓迎すべきことである。得られる税収は、二倍の四割減で最初の20パーセント増になるからだ。喫煙者数の減少を、それでも残った喫煙者が払う税金が埋め合わせて、余りあるわけである。もちろん、これがどこまでも続くわけではなく、極端な話、一箱十万円などということになれば、さすがに日本から合法的なタバコはほぼ一掃されるだろう。税収としてはどこかでピークを作るわけだが、その均衡点が今よりも税金が高いどこかにある、という事実こそ、この「X円なら禁煙」というデータが暴露していることなのである。少なくとも、非喫煙者はアンケート結果を見て増税政策を支持するはずで、それだけでも避けたいことだ。

 だからして、私が喫煙者なら「もうあと一円でも上がったら絶対禁煙してやる」と、嘘でも書く。もっと安ければもっと吸うのに、と書く。たぶん、それが最善の戦略だと思うのだが、現実、そうはなっていないわけである。なぜだろう。陰謀論風に言えば、実際には喫煙者ではないのに嘘を書いている非喫煙者の存在だとか、そもそもアンケート集計結果がごまかされているという可能性も仮定することはできる。実際には一箱二千円でも吸い続ける人が多いのだがそれを悟られたくないためのごまかしの結果、現在のような結果が得られている(つまり、我々が目にしているのはすでにごまかされた結果である)という可能性も高い。しかし、人は大筋としてそんなに利己的なことを考えてはおらず、アンケートには正直に答えるものだ、ということも、事実として確かにあるのかもしれない。結局、多くの喫煙者にとって、消費税と違ってタバコは人生の一部に過ぎず、いつでも非喫煙者側に回ろうと思えば回れるものである(たぶん)。正義に反することをするのはこれでしんどいものであり、これは嘘をついてまでごまかすべき事柄ではないのかもしれない。

 正義というのは馬鹿にしたものではない価値基準で、世論調査を目にするたびに、こういう場合正直と利己心のどちらをとるべきか、私は悩んでいる。タバコの問題を自分の身に引き比べて考えてみるには、私は非喫煙者なのでたとえば酒税について考えてもいいのだが、もう一つ、最近話題になっている「小説などの著作権を作者の死後50年から70年に延長することの是非」という問題があるので、これについて考えてみるのもいいだろう。著作権は、さまざまな人の利害が衝突する問題なので、熱心に議論がされている。私に関しては、確かこの問題が始まった頃は立場としてかなり単純だったのだが、書くだに恐ろしいことに、ある時点からこちら、私は恥ずかしながら著作権者側の、端っこのほうに引っかかっている。いっそういろいろ、考えさせられるのである。

 小説などの著作権の保護期間はどうあるべきか。現状の作者の死後50年というのは短いのか。報じられている両者の言い分を公平に見て、そして公共の利益ということを考えるならば、やはりここは「延長しない」という側に理があると私は思う。実感として、保護期間が死後70年になったからといって私自身の創作意欲はまるで増さないし、また私の孫なりひ孫なりが得をするということも、まあなさそうな気がする。だいたい創作者の意欲を云々するのであれば「著作権保護期間は作者の死後70年に延長される。ただし、今現在から後に発表された作品に限る」とすればどうかと思うのである。ところがこの問題は、よく考えるとそればかりではない。上のタバコと同じように利己的なことを考えるなら、私は消費側でしかないはずの、過去の作品の著作権の延長さえ、今現在の私にとってそれなりのメリットがあるようなのだ。

 理由は、以前、映画に関して同じ著作権延長の話題を取り上げたときに書いたことの繰り返しになる。過去の作品が手に入れにくいということは、現在作品を発表している人にとっては「競争相手の失点」に相当するからである。仮に昔の優れた作品が無料であると、現在のあまり優れてはいない作品(私の小説のことである)に回ってくるチャンスが減少するのだ。こんな利己的なことを書いて、よく指が腐り落ちないものだと自分でも不思議だが、要するに「できれば自社製品で市場を独占したい」ということなのである。

 どうすべきか。どうすべきもない。上のようなことをまったく考えなかった場合と同じように、私が著作権に関するシンポジウム等に参加して意見を述べるということはないだろうし(そういう習慣がないからだが)、次の選挙で「著作権を延長するべきか」が争点になることもなさそうだ。したがって公にあるいは選挙を通じて意見を表明する機会はまずない。私がここに上のように書くことで、延長論を支持する世論が喚起されるということもおそらくない(むしろ逆効果である気がする)。たまたまどこかで、このことに関する世論調査なりアンケートが実施されて、私がそれに答える機会がないとすれば、本当に世間に何の影響も与えないことになると思う。

 そして、正義と利己心の対立ということについて考えるならば、そうなってむしろ幸いである。考えてみれば、タバコに関するアンケートに答える喫煙者も、似たような気分なのかもしれない、と思うのだ。


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